代表:ヴォンドラ高橋 若菜

(Wakana Takahashi Vondra) 

 

(ピアニスト・ピアノ指導者)

【父のクラシック好き】

小学校の教員であった父が大のクラシック好き。 母のお腹の中にいる時から、グレングールドや ブレンデルのレコードを聞き、 3歳の時に父の勧めでピアノを習い始める。 ヤマハの幼児教室に小学校1年生まで通う 厳しい父で、毎日2時間練習をさせられ、泣きながら練習することもあり、「ピアノをやめたい」と心が折れそうになることも多々あった。 小学校1年の時にコンクールに力を入れている仙台で有名な先生を紹介され、 高校2年生まで習う。 教育熱心な両親だったこともあり、毎年のようにコンクールを受ける。ピティナコンペC級本選、宮城県芸術協会ピアノコンクール、日本ピアノ教育連盟ピアノ・オーディションなどに出場して成績を収める。三月末の早生まれのためもあって、小学生高学年になるまでは、授業について行くのがやっとで、積極的に発言もできず、内気な性格だった。ただピアノを弾くと「別人になる」「感情をこんなにも込められるのね!」と先生に言われる。

審査講評では、『想いがちゃんと伝わる演奏』と評価をいただいた。 徐々に自分の気持ちを出すことに喜びを感じ、 表現だけは、自分の意思でしている感覚があった

 

【長時間弾くと手が痛くなる・・・】

中学生になると、だんだんと弾く曲は難しくなる。

中学3年生の高校受験で、音楽の道を志したいと心に決める。いざ、長時間練習するも、幼児の頃エレクトーンで始めた私には脱力で苦戦。 変な癖がついていた。 間違った弾き方で練習していたので 長時間弾いては手が痛くなるし 難しい曲も弾けない 。当時の私はそのことに気づかず、無駄な時間を浪費してしまっていた。7〜8時間練習するが、もっと練習したくてももう体がついてこなかった。 ただ、譜読みや初見が得意で、レッスンは比較的早く進む。 コンクールなどにも参加。

 

【常盤木学園高校音楽科へ】

高校は、音楽科のあった常盤木学園高校に合格。中学では、ピアノは手を抜いていたため、 受験は、周りがヒヤヒヤ 持ち前の読譜力でなんとか間に合わせた。先生からは後で 「絶対落ちると思った」と後で言われた。 中学時代は普通高校受験も考えていたため、 勉強とピアノの両立はかなり大変だった。 そんな中入った高校。 高校生活はとても楽しかった。 また級友と語り尽くせないほど音楽の話をした。 授業で著名な音楽家が講義に来てくれた。 ピアニストの中村紘子さんも来てくださってその年にあったショパンコンクール(ユンディ・リが優勝した年)の話なども聞かせてもらった。 心に響いた話は 『日本人のコンテスタント(コンクールチャレンジャー)はステージに上がる時に 恥ずかしそうに出てくる。それだけでもうマイナスがつく、海外の演奏者は、舞台に出てきた瞬間オーラがある。」 その意味がその時はよくわからなかった。

 

【クロアチア、ウィーン、ザルツブルクへの修学旅行】

そんな中、高校2年生の春にクロアチア、ウィーンとザルツブルクに修学旅行に1週間行く。 楽しみでしょうがなかった。 モーツァルトゆかりの地 楽友協会 オペラ鑑賞・・・ツアーの中には、クロアチアの音楽院訪問があった。 クロアチアではまずそのロケーションに魅了された 目の前が海 そして、貴族の別荘だったヴィラが音楽院の建物。 あまりの豪華さに息を飲んだ。 内装も音楽院とは思えない華やかさ。 日本人留学の方の話も印象深かった。 何よりその方もキラキラ輝いていた。バロック、古典時代の音楽は宮廷で栄えた。 豪華な場所で勉強し、演奏してこそ、 本来のその時代の曲の表現ができるのではないか? そんなことを考え始めた。

 

【仙台国際コンクール】 高校3年生の夏に再び人生が変わる出来事が・・・ 仙台国際コンクール記念すべき第一回目。 第一次予選、第2次予選、セミファイナル、ファイナル 全て聞きに行った。 仙台国際コンクールは、協奏曲中心のコンクールだ。そこで、世界中の若いトップクラスのピアニストたちの演奏を聴いた。その壮大な音楽の表現力に鳥肌がたった。コンクールなのに、まるで演奏会のよう。 聴衆と音楽で共感、通じ合うそんな様子を目の当たりにする。 こんな風に私もステージの上で輝きたい! ステージがゴールドで輝き始め ピアニストたちがそれぞれの色のオーラで強烈にアピールしてきて、 誰が優勝してもわからない 甲乙つけがたいそんな演奏ばかりだった。 これをきっかけに 真剣にヨーロッパへ留学することを考え始める。

 

【恩師との運命的出会い】

高校卒業後思い切って単身でクロアチアへ。モスクワ音楽院の姉妹校であった「イーノ・ミルコヴィッチ音楽院校」に入学。そこでは,作曲家フランツ・リストから伝わるリスト・ジロティ楽派の演奏法を直系で受け継いできた最後の体現者でマリーナ・アンボカーゼ女史との運命的な出会いが待っていた。マリーナ女史に出会う前,ずっと抱えていた悩み“脱力”があった。体に無駄な力が入ってなかなか思うような音が出せない。体がかたいために長時間練習すると,腕が痛くなる,またそのためにテンポが速い曲、長い曲が弾けない。そんな私の問題を「体がかたい」「もっと体を楽にして」という言葉を一切使わず,無理だと思っていた”脱力すること”へ導いてくれた。

 

【目から鱗が落ちる奏法】

最初の一週間は,まるで初めて習うピアノ初心者のようなレッスン。手のフォームから腕の使い方の細かな説明。鍵盤のどの辺に指をおいて打鍵するのか。など繰り返し,繰り返しスケールを弾きながらの練習。まずは,これだけを一週間練習。そして少しずつ曲を選んでの練習へ。一ヶ月もしないうちに,自分の音色が変わっていくのが実感。感動する。

ずっと「あなたは体がかたい」「もっと楽にして」と言われ様々な方法を試しても出来なかった”脱力”。まさに目から鱗だった。                  

 

【世界的ピアニスト,イーヴォ・ポゴレリチの師】

マリーナ女史は,日本でもファンが多い世界的ピアニスト,イーヴォ・ポゴレリチの師でもある。ポゴレリチ氏は,リスト・ジロティ楽派直系のグルジア人ピアニスト,アリス・ケジュラッゼ女史に薫陶を受ける。しかし1996年にケジュラッゼ女史は急逝する。ポゴレリチ氏の師であったケジュラッゼ女史とマリーナ女史は,実は同じ門下生。二人の師であるロシア人ピアニスト,ニナ女史からリスト・ジロティ楽派奏法を受け継ぐ。ケジュラッゼ女史が急逝した後,ポゴレリチ氏の師となったのがケジュラッゼ女史同様にリスト・ジロティ楽派直系のグルジア人ピアニスト,マリーナ・アンボカーゼ女史だったのだ。また、マリーナ女史についてポゴレリッチ自身、2005年の来日インタビューで、「別の金のスプーンで、同じ飲み物を飲むような体験だった。若いころには妻から、そして成熟したのちにはマリーナから、同じ純粋な知識を学ぶことができて幸運だったと思う。」と語っている。

 

【愛情深いレッスン】

マリーナ女史から大切なことをたくさん学ぶ。中でも先生が一番レッスンでこだわっていたことは,「音には魂が宿る」「演奏者は一音一音魂を吹き込みながら演奏すること」だ。

女史がレッスンで弾いて見せる演奏は,聞こえてくる音色という次元を超えマリーナ女史の魂に触れているかのような感覚。彼女の世界にあっという間に引き込まれ異次元へと連れて行かれてしまう。厳しい父のもと育ち、日本で習っていた先生はあまり褒めてくれる先生ではなかったため、初めに驚いたことは,「褒める」ということだった。まさにカルチャーショック!どんな小さなことでも,女史が指導したことができるとまず「ブラボー!」と言ってキスとハグ。はじめは戸惑うが、次第に先生に心を開くようになり、自分の音楽への表現の仕方も変わっていく。中でも印象に残っている褒め言葉は,「あら,あなた以外に今のような演奏誰ができるかしら?」「なんて素敵な演奏!あなたの演奏一日中聴いていられるわ!」「あなたは、ナンバーワンのピアニストになるわ!」だ。そんなとっておきの褒め言葉を心を込めて言ってくれた。新しく始めた曲に対しても,「なんて素晴らしい曲!あなたが弾いたらもっと素晴らしくなるわね!」と愛情深く指導してくれた。

【ピアニストとしてデビュー】

大学2年の時、突然通っていた音楽院が政治的理由で閉校。しかし、マリーナ女史も学生全員ザグレブ音楽院へ移ることができ、女史との勉強が問題なく続けられた。在学中は、国際ピアノコンクールにも挑戦。2006年パドワ国際コンクール3位(イタリア)

サンバルトロメオ国際コンクール3位入賞(イタリア)入賞。2007年には、最優秀の成績で卒業する。学部卒業後も研究科へ入学して勉強を続ける。クロアチア各地で国際音楽祭へ招聘され、ピアニストとしての仕事もこなすようになる。2009年には故郷仙台で、リサイタルデビュー。地元の友人たちは、「海外で活躍する若菜を誇りに思う」とリサイタルデビューを祝ってくれた。

 

【音楽学校へ就職できない】

9年間マリーナ女史のもと研鑽を積み、リスト・ジロティ楽派奏法を継承。後継者として認められる。次第に音楽指導へも興味がわくようになる。住んでいた街の国立音楽学校へ何度も訪れ、就職の機会をうかがう。しかし、その音楽学校の卒業生を優先して就職させていたために断られる。仕方なく、その街に新しく設立した国立バレエ学校へ就職。就職後、必須であったクロアチア国家音楽学校ピアノ指導者教員免許の国家試験を受ける。母国語でないクロアチア語での勉強は大変だったが無事取得。演奏活動もしながら、バレエの伴奏者、副科ピアノ指導者してバレエ学校に勤務するが、恩師から受け継いだ奏法を仕事に生かすことができず落ち込む。そんな中、70を超えてお歳になった恩師は、故郷ジョージアへ帰国。なんだか心にぽっかり穴が開いてしまった気持ちになった。

 

【使命に目覚める】

恩師が帰国してから、「私はここで何をしているんだ?」と次第に自分のこれからの生きるべき道について悩むようになる。悩んだ末「日本で、リスト・ジロティ楽派の後継者を育てたい。日本で次世代のピアニストを育てたい。」と使命に目覚める。またこの作曲家フランツ・リストから伝わるリスト・ジロティ楽派奏法は、日本では、私と妹の二人しか受け継いでいない。(妹は、私同様ザグレブ音楽を卒業し、6年マリーナ女史の元研鑽を積む)

11年間のクロアチア生活に終止符を打ち、2014年日本に完全帰国。八千代市でピアノ教室を開業。日々熱心に指導しながらも、演奏活動も精力的にこなす。

現在、ピティナ(全日本ピアノ指導者協会)正会員、PTNAピアノコンペティション審査員もつとめる。

 

 

留学のきっかけになった場所をYOUTUBEで紹介しています。

【実績・資格】

イノ・ミルコヴィッチ高等音楽院(モスクワ音楽院提携校)を経て、クロアチア国立ザグレブ音楽大学にて最優秀の成績で卒業。同大学研究科修了。

リスト・ジロティ楽派の演奏法を直系で受け継いできた最後の体現者であるマリーナ・アンボカーゼ女史の薫陶のもと9年間研鑽を積み,後継者と認められる。

クロアチア,日本各地,オーストリアでソロリサイタル,室内楽,伴奏で数々の演奏会,国際音楽祭に出演。

2011年には、クロアチア各地で東日本大震災チャリティーコンサートをいち早く開催。また被災地仙台でもチャリティーリサイタル開催。

日本ショパン協会東北支部主催「オールショパンによる新人演奏会」に出演。

2013,2016年メドリン夏音楽祭(クロアチア),ワルーン音楽祭(クロアチア)にてヴェリャック弦楽四重奏団と共演。 

 

かやぶき音楽堂国際デュオコンクール第2位入賞(日本)

2006年パドワ国際コンクール3位(イタリア)

サンバルトロメオ国際コンクール3位入賞(イタリア)

 

BS日テレの「大人のヨーロッパ街歩き」で案内人として出演するなどラジオ・テレビ出演や通訳・翻訳など幅広く活躍。

 

クロアチア国家音楽学校ピアノ指導者教員免許取得。

ピティナ(全日本ピアノ指導者協会)正会員。

PTNAピアノコンペティション審査員。

 


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リスト・ジロティ楽派とは?

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